AIxデザインのポイント
- アーキテクチュラルソリューソンズ
- 6月15日
- 読了時間: 4分

AIの進化はめざましく、今や誰もが簡単な操作で美しく整ったビジュアルや説得力のある文章を高速で生み出せる時代になりました。テキスト生成AI、画像生成AI、音声、映像、さらには設計補助やプログラミングにまで及ぶ多様なツールが市場を賑わせています。
しかし、その便利さの裏には、どこか「空虚さ」や「軽さ」が漂っているようにも感じられます。
それは、成果物は立派に見えるのに、それに至る思考や文脈がまるで感じられない――そんな現象が増えてきています。
デザインをする上で人工知能を用いることでのAIxデザインのポイントを
把握しておくことは重要になってきます。
「ダック建築」の再来?
AIアウトプットの落とし穴
かつて建築批評家ロバート・ヴェンチューリらが語った「ダック建築」という言葉があります。ラスベガスの通りに並ぶ巨大な看板や装飾建築——それは見る者の視覚を惹きつけますが、なぜその形でなければならなかったのかという根拠や、深い意図は乏しいものでした。

いま、私たちはAIによる「新たなダック時代」に突入しているのかもしれません。
インパクトが強く、アウトプットの完成度も高い。
しかし、その裏にある問いの不在、プロセスの希薄さが、じわじわと世の中を蝕み始めているように思うのです。
そして、ここで忘れてはならないのは——便利さとは、常に諸刃の剣であるということを忘れてはなりません。
たしかにAIや自動化技術によって私たちの仕事や暮らしは格段に効率化されました。思考の一部を任せられることは素晴らしい恩恵です。時間を生み出し、余裕をもたらす手段にもなります。
しかし、その「余裕」は果たして本当に創造のために使われているのでしょうか?
気づかぬうちに、便利さが人間の「感じる力」や「考える力」そのものを鈍らせている場面が、確実に増えてきているように感じます。
問いを持つ前に答えが示され、仕組みを理解しないまま結果だけが届く。そんな状況が当たり前になると、人はいつしか「自分の力で考えようとする意志」そのものを手放し始めるのですはないでしょうか。
「体で感じとる」を伴わない学びは、根づかない
便利さの問題は単なる怠慢ではありません。深く関わらず、結果だけを受け取る経験の積み重ねが、思考の筋肉を徐々に衰えさせていくのです。
たとえば、かつては一つの設計図面を描くために、試行錯誤しながらスケールを合わせ、線を引き、何度も消しゴムを使った。その中で、空間への理解、構造への想像、素材感への感受性が養われたのです。
しかしいま、AIに「出力」させて満足してしまえば、その蓄積は起こらない。形は得られても、知覚も、経験も、責任も、通っていないのです。
自分の頭で考える、という営み
だからこそ、この便利さの時代において大切なのは、「自分の頭で問いを立て、自分の感覚で確かめ、自分の判断で進む」——この一連の営みも、意識して持ち続けることです。
それは非効率かもしれません。AIだけを使うよりも、時間も手間もかかるでしょう。しかし、そのプロセスの中にこそ、人間の成長や創造の源泉があるのではないでしょうか。
便利なものを活かすのは結構なこと。しかしその便利さの中に、自分自身の能力を蝕む静かな毒も含まれていることを、決して忘れてはならないのです。
「問い」と「プロセス」は重要なのか
デザインや設計の価値は、ただ形が整っていれば良いというものではありません。
それが
なぜそうなったのか?
どのような課題を解決しようとしたのか?
どうすれば未来に適応し続けられるのか?
こうした問いに一つずつ向き合い、仮説を立て、検証しながら積み重ねるプロセスこそが、本質的な価値を形づくります。
言い換えれば、「形」とは思考の痕跡、「コンセプト」とはその必然性の証明です。
プロセスが濃いほど、使い手にも伝わる力が宿ります。使っていく中での納得感、育てていける余地、そして応用の可能性——それらは単なるアウトプットでは得られない、プロセスの副産物です。
AIxデザインのポイント
これからのAI時代に問われる「胆力」。
AIツールを使うこと自体に問題があるわけではありません。
むしろ活用しなければ、現代的なスピード感や競争にはついていけないでしょう。ですが、その便利さに溺れることで、「問いを立てる力」や「考え抜く姿勢」を忘れてしまっては、どこかでほころびが表れ破綻する可能性もあります。
どれほど高度なアウトプットが得られても、それが“なぜその形か”という文脈や必然性を持たないのであれば、単なる「目を引く装飾」でしかありません。
だからこそ、今こそ改めて意識したいのです。
ゆっくりと丁寧に連なる思考を進める胆力を持つこと。
手間を惜しまず、安易に飛ばさず、深く考え、問い直しながら積み重ねていく。
それは決して時代遅れの作法ではなく、むしろ今という時代にこそ最も必要な「人間の姿勢」なのだと感じています。